第1章 回る指輪
インパクトドライバーの先が、下地の奥の金物に当たった。
いつもなら手首で殺せる反動だった。握りの中で本体がねじれ、手首が勝手に跳ねた。ビスの頭が斜めに潰れ、ビットが外れて、合板に浅い傷がついた。
「藤井さん、珍しいね」
脚立の上から、田淵さんが言った。棟梁と呼ばれて三十年、俺とは十年の付き合いになる。
「ちょっと、下に何かありました」
「あったね。俺も知ってた」
知ってたなら言ってくださいよ、と返しながら、手首を二回振った。痛くはない。ただ、握りの中で本体が回ったときの感触が、指に残っていた。
中村さんの家は、一階をまるごと直す工事だった。台所と洗面所と、床の全部。夫婦は駅の向こうの賃貸に仮住まいしていて、工事は一月まで続く。台所は解体を終えて三日目で、流し台と吊り戸棚を外し、床を剥がして、給水と排水の位置を出し直している。壁の中から出てきた昔の配管は、図面より十センチ右にあった。こういうことは、どの家でも一つはある。
潰れたビスを抜こうとして、軍手を外した。
左手の薬指で、指輪が回った。
内側に彫った日付が、指の上側へ半周して止まった。暑さで指がむくむ季節だった。去年の夏は、この時期に石鹸を使わないと外れなかった。今は、親指で押すだけで、関節のところまで滑っていく。

指輪を奥へ押し戻して、軍手をはめ直した。
「藤井さん、それ、作業着」
田淵さんが脚立を下りてきて、自分の肩を叩いた。
「肩、余ってない?」
言われて、腕を回してみた。会社の作業着は、入社したときからずっとLだった。肩の縫い目が、腕の付け根より少し外に落ちている。着古して伸びたのだろうと思った。
「痩せました。この暑さなんで」
「俺は痩せないけどね」
田淵さんは腹を叩いて笑い、弟子の森に墨出しの続きを頼んだ。森は二十七で、この夏から田淵さんの現場に来ている。ほとんど喋らないが、墨の線は田淵さんより細い。
昼の休憩に、軽バンの運転席で弁当を開けた。朝五時半に起きて、自分で詰めたものだった。卵焼きと、前の晩の残りの生姜焼き。凛の弁当箱は保育園には要らないから、この家で弁当を詰めるのは俺だけだ。
箸を持った手を、なんとなく見た。
指の腹は硬く、爪は短い。二十歳から二年、大工の見習いをした手だった。袖の境目で日焼けがくっきり切れている。いつもの手だった。それなのに、さっき跳ねた手首の感触が、まだ消えていなかった。
スマートフォンが震えた。妻の美咲からだった。
〈今日何時?〉
〈七時くらい〉
〈了解。凛の体操服、名前のとこ取れてた。アイロンのやつ、どこだっけ〉
〈わからん。洗面所の上?〉
〈ない〉
既読がついて、それきりになった。十分後、スタンプが一つ来た。猫が頭を下げている。見つかったのか、諦めたのかは、分からなかった。
*
家には七時十分に着いた。
郊外の建売で、住んで五年になる。二階建ての四LDK。ローンはあと三十年、名義は俺だった。家族用のミニバンの隣に会社の軽バンを停め、玄関を開けると、凛の靴が片方だけ裏返っていた。
表に返して、揃えた。俺の靴も、その隣に揃えた。
「パパ、おかえり」
凛が廊下を走ってきて、脚にぶつかった。五歳の体重が、膝の横で弾んだ。十二月で六歳になる。いつもならそのまま抱き上げる。抱き上げて、天井すれすれまで持ち上げる。今日は、腕の中で一瞬、重さが遅れて来た。落としはしなかった。凛は気づかずに笑っていた。
台所では、美咲が鍋をかき回しながら、スマートフォンで保育園の連絡アプリを見ていた。
「ただいま」
「おかえり。ねえ、就学時健診の案内来てた。十月の平日。あなた、休めそう?」
「現場次第」
「現場次第って、いつもそうじゃん」
責める声ではなかった。事実を並べる声だった。美咲は画面を閉じ、冷蔵庫の横のカレンダーに、日付だけ書いた。その下の欄に、小さく「?」と付け足した。
アイロンの名前シールは、見つかったらしかった。凛の体操服が、椅子の背に掛かっていた。胸のところに、ひらがなで「ふじい りん」とある。字は美咲のものだった。
風呂は、凛と入った。
凛は湯船の中で、手のひらで水鉄砲を作る。俺が教えたやり方だった。両手を組んで、指の隙間から湯を飛ばす。凛の水はまっすぐ飛ぶようになったが、今日は俺の方が、何度やっても横へ漏れた。
「パパ、へたっぴ」
「手がふやけたんだよ」
言い訳をしながら、組んだ手を見た。指と指の間に、前はなかった隙間がある気がした。
凛の髪を乾かし、二階の寝室に布団を三枚敷いた。俺、美咲、凛の順に並ぶ。凛は壁際が好きで、最後に掛け布団の中で一回転してから寝る。
絵本を一冊読んで、電気を消した。
*
夜中に、目が覚めた。
胸のところに、何かが乗っていた。
暗い天井の下で目を動かすと、隣の布団から美咲の手が伸びていた。寝返りの途中で止まったような手だった。指先が、Tシャツの上から、胸の真ん中より少し左を押している。
「……なんか、しこりある」
寝言だった。はっきりした声だった。
美咲の指が、そこを二回押した。円を描くように、軽く。歯科衛生士の指だと思った。仕事で患者の顎の下を触るとき、美咲はこうやって押すのだと、前に聞いたことがある。
押された奥に、硬いものがあった。
硬貨ほどの、平たい芯だった。美咲の指が離れたあとも、そこだけが鈍く疼いた。打ち身の治りかけのような痛みが、少し遅れて返ってきた。

美咲は、そのまま寝息に戻った。
俺は自分の指で、同じところを押してみた。あった。左だけではなかった。右にも、同じような芯があった。
天井を見ながら、朝の段取りを組んだ。五時半に起きて、弁当を詰めて、中村さんの現場で設備屋と給水の位置を確認する。十時に、別の現場で外壁の見積もり。そのどこにも、胸の芯が入る隙間はなかった。
*
「私、しこりって言った?」
翌朝、台所で聞くと、美咲は炊飯器の蓋を開けたまま、首をかしげた。
「言った。ここ」
胸を指すと、美咲の顔が一瞬で仕事の顔になった。しゃもじを置き、手を拭いて、俺のTシャツの上から同じ場所を押した。夜中よりずっと正確な押し方だった。
「……ある。左右とも」
「うん」
「うん、じゃないよ。病院行きなよ。男の人も乳がんになるんだよ」
「知ってる」
「知ってるなら行って。予約、私が取ろうか」
「いい。俺が取る」
言ってから、弁当箱の蓋を閉めた。美咲は何か言いかけて、凛を起こしに二階へ上がった。階段の途中で一度止まり、「今日中にね」と下へ言った。
その日のうちに、予約は取らなかった。
翌日の昼に、現場の近くの内科に電話した。空いていたのは翌週の月曜の朝で、俺は中村さんの現場の段取りを一日ずらした。美咲には、〈月曜、病院行く〉とだけ送った。
〈よかった〉
すぐに返事が来た。それから、もう一つ。
〈一緒に行こうか?〉
〈いい。近所の内科〉
〈そっか〉
そっか、のあとに何もなかった。俺は画面を閉じて、給水管の位置を図面に書き込んだ。
*
内科の医師は、胸を触り、血を採り、首をかしげてから、紹介状を書いた。
「汐見中央病院に、専門の外来があります。念のためです」
念のため、という言い方で、何の念なのかは言わなかった。封筒の宛名には、変容症外来とあった。
汐見中央病院には、背広で行った。午後に中村さん夫婦とショールームへ行く約束があったからだ。システムキッチンの高さと扉の色を、実物で決める。背広はその一着しかなかった。着るのは去年の親戚の法事以来で、肩の縫い目が、作業着と同じように少し余っていた。九月の半ばの、まだ暑い火曜で、上着の中にすぐ汗がこもった。
受付で紹介状を出すと、問診票を渡された。
待合室の椅子で、クリップボードを膝に置いた。氏名、生年月日、住所。仕事で書く書類と変わらない。すらすら埋まった。職業の欄に、会社員、と書いた。現場監督と書こうとして、やめた。
その下に、緊急連絡先の欄があった。
氏名、続柄、電話番号。
ペン先が、欄の上で止まった。
美咲の名前を書けば、それで済む。続柄は妻。番号は暗記している。十年前から変わっていない番号だった。
書けば、この病院のどこかに、美咲の名前が残る。何かあったら、ここから美咲に電話が行く。何かというのが何なのか、俺はまだ知らなかった。知らないまま、美咲の電話を鳴らす仕組みに、名前を渡すことになる。
内科の医師の「念のため」が、急に重くなった。

膝の上では書きにくい、ということにした。顔を上げると、向かいの椅子に、眼鏡を掛けた女の人が座っていた。顎のところで髪を揃え、紺の鞄を膝に置いている。俺よりずっと落ち着いた顔で、手帳を見ていた。
「すみません。机、使えるところありますか」
女の人は顔を上げ、少し迷ってから、壁際の記入台を指した。
「あちらに」
低くはないが、落ち着いた声だった。礼を言った。立ち上がらなかった。記入台まで行っても、書くことは変わらない気がした。
「高橋直人さん」
受付の奥から、看護師の声がした。
俺は、なんとなく待合室を見回した。高橋直人。どこにでもいる名前だった。背広か作業着か、どこかの男が立ち上がるはずだった。
向かいの女の人が、鞄を持って立ち上がった。
「はい」
今の声で答えた、というふうに聞こえた。どうしてそう聞こえたのかは分からない。女の人は俺の前を横切り、呼ばれた方へ歩いていった。平たい靴だった。踵が、床を静かに叩いた。
俺はしばらく、その背中が消えた廊下を見ていた。
問診票の緊急連絡先は、空欄のまま受付に出した。受付の人は欄を見て、「ご家族の方は」と聞いた。
「妻です。あとで書きます」
受付の人は、欄の横に小さく鉛筆で印をつけた。
*
診察室で、医師は俺の身長を測らせた。百七十六センチ。去年の健康診断と同じだった。握力も測った。右が四十一。去年は五十を超えていた。数字を聞いて、指輪のことを思い出した。
「女体化症と判断します」
医師はそう言った。
そのあとも、何か話していた。変化はおおむね三か月から半年で進むこと。順番には個人差があること。元に戻す治療は、今のところないこと。俺は壁の時計を見ていた。二時十分。中村さん夫婦とのショールームは、三時半だった。
「ご結婚されていますね」
医師が、問診票の空欄を見ていた。
「はい」
「次回は、奥様と一緒にいらしてください。ご家族にお伝えしておきたい注意があります。来週の同じ曜日で、いかがですか」
来週の火曜は、中村さんの現場で設備の搬入がある。それを言いかけて、俺は手帳を開いた。
「午後なら」
医師は、午後の枠を取った。
ショールームには、三時二十分に着いた。中村さんの奥さんは、扉の色見本を三枚持って待っていた。家から持ってきたスリッパに、もう履き替えていた。旦那さんは、スマートフォンでゴルフの予約をしていた。
「高さ、どうされますか。今のは八十センチです。八十五が、いちばん多いですね」
俺が言うと、奥さんは見本のキッチンの前に立ち、両手を天板に置いた。何か言いかけて、旦那さんの方を見た。
「主人に任せます」
旦那さんは顔を上げ、「八十五でいいんじゃない」と言った。奥さんは頷いた。俺は図面に、八十五と書いた。
書きながら、奥さんの肩が少し上がっているのが目に入った。天板に置いた手の、肘の角度も。言うべきだったのかもしれない。言わなかった。三時四十五分には次の打ち合わせがあった。
*
帰りの軽バンで、美咲に言う言葉を組み立てた。
病院で、変容症外来というところに回された。女体化症だと言われた。三か月から半年で、身体が女になるらしい。治らない。来週、一緒に来てほしい。
信号で止まるたびに、順番を入れ替えた。どこから言っても、途中で美咲の顔が浮かんで、その先が組み立てられなかった。
段取りなら組める。会社には何を言うか。現場は誰に回すか。有休は何日残っているか。ローンの団信は、病気で働けなくなったときに使えるのか。そういうことなら、次々に並べられた。美咲に何と言うかだけが、並ばなかった。