オレガオンナORIGINAL TSF STORIES

CASE 001 / FREE EPISODE 01

同じ名前で
第1話

オレガオンナ / オリジナルTSF小説 / 全年齢向け

第1章 いつもの声

「営業の高橋さんをお願いしたいんですが」

「はい、私が高橋です」

受話器の向こうで、紙をめくる音が止まった。

「あの、いつもお願いしている男性の方なんですけど」

画面には、先方から届いた見積書が開いていた。担当者の欄に高橋直人とある。七年使っている会社の書式で、俺の名前だけ少し右に寄っている。

「私です。昨日お送りした、秋のカタログのお見積もりでしょうか」

「えっ。ああ、すみません。お声が違ったものですから」

「ちょっと、喉の調子が」

言ってから唾を飲んだ。痛くはない。

先方はすぐ仕事の話へ戻った。去年と同じ紙で、ページ数を増やした場合の金額を知りたいという。俺は前年の仕様書を開いた。

「表紙だけは、去年の途中で変更しています。最初のお見積もりより厚い紙ですので、そこを揃えて計算し直します」

「そうでしたね。よく覚えてますね」

去年、その変更で工場との電話が三往復増えた。忘れる方が難しかった。

修正版を昼までに送ると約束して、通話を終えた。

隣の席の宮本さんがこちらを見た。

「喉、大丈夫?」

「大丈夫です。見積もり、先に直します」

宮本さんは何か言いかけ、自分の画面へ戻った。

午前十時十七分。返す必要のあるメールが四件。うち一件には昨日、「明日の朝には」と返事をしている。計算表を開き、紙の欄を変更した。数字を入れる場所はいつも通りだった。

昼前に修正版を送り、休憩に出た。会社の裏には自動販売機が二台ある。普段は缶コーヒーを一本買うのだが、財布を出したところで喉が悪いことにしたのを思い出し、水を選んだ。

二口飲んでみた。冷たいだけだった。

裏口から人が来ないのを確かめ、スマートフォンの録音を起動した。

「三枝印刷の高橋です。いつもお世話になっております」

再生すると、小さなスピーカーから、ひどく丁寧な声が出た。

録音で自分の声を聞くのは前から苦手だ。それでも今日は違った。「高橋」の前の短い間も、語尾を下げる癖も俺なのに、声の高さが馴染まない。

喉に指を当てたまま、もう一度、少し低く言ってみた。途中で息が引っかかった。再生するまでもなく、無理をしたのが分かった。

喉に触れる指とスマートフォン

画面を閉じると、佐伯から通知が来ていた。

〈土曜、いつもの時間でいい?〉

週末のゲームの約束だった。〈いいよ〉と返した。

席へ戻ると、机にカタログの進行表が置かれていた。宮本さんが印刷してくれたらしい。九月の納品日に丸がついている。四月の欄から九月の丸まで、表はまだほとんど白かった。その下の担当者欄にも、俺の名前があった。

録音を消そうとして、指を止めた。ファイル名を「声」に変え、今日の日付を足した。

*

帰りに駅前のドラッグストアへ寄り、のど飴を三種類買った。はちみつと、かりんと、名前の長いハーブのもの。レジで袋はいりませんと言うと、店員が一度こちらの顔を見た。

部屋は駅から十二分の一階にある。玄関から台所の横を抜ければ、六畳の居室まで十歩もない。机の椅子には朝脱いだ上着が掛かり、ベッドの足元には畳んでいない洗濯物があった。

冷凍していたご飯を温め、残り物で夕食を済ませた。のど飴を一粒ずつ舐めた。三つ目を舐め終えても、何も変わった気はしなかった。効かないのは、きっと銘柄のせいだと思うことにした。

洗面所で眼鏡を外した。鏡へ近づくと、眉の間に薄く跡がついている。少し重いまぶた、丸い鼻、剃り残しのある顎。疲れた自分を確認するだけの、見慣れた順番だった。

「あー」

鏡の中の口が開いた。音はやはり、少し高いところから出た。

喉に触れてみた。

指の腹を顎の下から滑らせると、いつもの位置で喉仏に当たった。当たりはした。ただ、角が丸い。唾を飲むと、指の下で上下するはずの硬い塊が、薄い布越しに触れているように頼りなく動いた。昨日までこれほど柔らかかったのかと考えたが、自分の喉仏の硬さなど、確かめたことは一度もなかった。

もう一度「あー」と言い、喉に指を当てたまま、音を下げていった。いつもならこのあたりで胸まで震える、という高さまで下りても、震えは喉の奥で止まった。響く場所が、一段浅くなっている。音の通る管そのものが、少し短くなったような感じだった。

頬に手を移した。朝剃った顎は、夜になっても指に引っかからなかった。いつもなら夕方には紙やすりのようになる。今夜は、剃り残しの一点だけが、ぽつんと硬かった。

寝る前に、部屋の電気を消そうとして、いつものように机の上のスピーカーへ声を掛けた。

青い輪が一度光り、「すみません、よく分かりませんでした」と返ってきた。

二回目も同じだった。三回目に、胸を張って少し低く言い直すと、ようやく電気が消えた。

暗くなった部屋で、俺はしばらく立っていた。去年の冬、酔って帰った夜にも、この機械は俺の声で電気を消した。

布団に入ってから、スマートフォンで症状を検索した。

候補の中に「女体化症」が出たとき、指が止まった。会社の研修で名前を聞いた覚えがある。年齢制限のある病気だ、という程度には知っていた。ニュースで復職制度の特集を見たこともあった。

二十歳から四十五歳。

二十九歳の俺は、きれいにその間にいた。

画面には、声の変化だけで判断はできない、と書かれていた。その一文を何度か読んだ。続きには外見の変化についてあったが、そこまで読む前に、関連する検索の方を押していた。

患者の掲示板だった。「声から始まった人いますか」という題の書き込みを開いてしまい、返信を下へ下へと読んだ。三十代の会社員。四十代で店をやっている人。最初の一週間は、みんな風邪だと思っていたらしい。のど飴を何種類も試した、と書いている人もいた。

気づくと、二時を過ぎていた。

俺は検索の履歴を消し、ついでに、開いていたタブも全部閉じた。誰に見られるわけでもなかった。

翌朝は、いつもの順番で支度をした。湯を沸かし、パンをトースターに入れ、焼けるまでの間に顔を洗う。歯を磨きながら、低い声を出す練習の動画を再生した。

「喉ではなく、胸に響かせるイメージで」

画面の中の男の人は、胸に手を当てて、よく通る声を出していた。俺も胸に手を当て、言われた通りにした。響いたのは、喉の上の方だった。三分で止めた。

バターを塗っていると電話が鳴った。課長だった。

「高橋、今日の訪問、先方が三十分遅らせたいそうだ。直行で間に合うか」

「はい。十時半ですね」

「……ああ。悪い、寝てたか」

「起きてます」

課長は予定だけ確認して切った。向こうから何か言われるのを待っていたせいで、受話器もない手をしばらく耳に当てていた。

コーヒーを飲み切り、青いシャツの代わりに白いものを着た。襟元のボタンを留め、少し苦しい気がして一度外した。布が変わったのか、首が変わったのか、比べるものがなかった。

*

訪問先では、相手は俺の顔を見て普通に挨拶した。

それだけでひどくほっとした。打ち合わせの間、声が少し上ずるたびに咳払いを挟んだが、誰も指摘しなかった。帰りに渡された修正原稿も、いつもと同じ重さだった。

会社へ戻ると、宮本さんが空いた会議室を指した。

「午後のオンライン打ち合わせ、ここ使っていいよ。喉を張らなくて済むから」

「そんなに変ですか」

「いつもと違うとは思う。無理して下げてる感じがする」

見透かされたようで、眼鏡を押し上げた。

「録音すると、よく分からなくて」

「分かる人に聞いたら。病院とか」

宮本さんは軽く言って、自分の資料を抱え直した。俺が夜中に何を読んでいたかまでは知らない。そう思うのに、掲示板の題が頭の中で点滅した。

会議室の予約表に名前を書いた。二十九歳の会社員が、自分の声で話すために個室を借りる。そんなことが起こるとは、先週まで考えたこともなかった。

土曜日、佐伯との通話をつないだ。

「マイク変えた?」

最初にそう聞かれた。

「変えてない。そっちは?」

「同じ。なんか音が明るい」

「明るいって何だよ」

「知らん。こっちの設定かもしれん」

佐伯は本当に設定画面を開きかけた。やめていいと伝えると、そのまま敵の位置の話になった。俺はいつもの場所でいつもの失敗をして、佐伯に笑われた。笑い返した声だけが、自分の耳に引っかかった。

一時間ほどで切り上げた。喉が疲れたというより、話す前に声の出し方を考えることに疲れていた。

〈病院行ってくるかも〉

終了後に送ると、すぐ返事が来た。

〈何かあった?〉

〈声。治らないから〉

〈そっか。結果出たら教えて〉

その「そっか」が、ちょうどよかった。

週明け、近くの内科を受診した。診察のあと、医師は紹介先を二つ挙げた。片方は汐見中央病院の変容症外来だった。掲示板の書き込みにも、その名前があった。

説明を聞きながら、壁の時計を見た。会社に戻ると約束した時刻まで、あと四十分。紹介状を受け取るのにどれくらい掛かるのかを、先に質問した。

帰りの電車で予約を取った。専門外来はその週の午後に空きがあった。

カレンダーに「通院」と入力すると、その翌日に顧客訪問の予定が出た。九月のカタログの、最初の原稿打ち合わせだった。

両方とも、予定の色は青にした。

第2章 半年先の予定

汐見中央病院の変容症外来は、一般の内科と同じ階にあった。

もっと入口が分かれていると思っていた。受付の手前で立ち止まって案内図を見直すと、後ろの人が横を通り抜けた。俺は紹介状の入った封筒を出した。

問診票の氏名欄は、普段の見積書より広かった。大きく書けば落ち着く気がして、高橋直人と一画ずつ埋めた。声の違和感が始まった日には、最初に録音した日より三日前の日付を書いた。

待合室には、仕事の資料らしいものを読んでいる人も、スマートフォンを見ている人もいた。外見だけでは、誰が何のために来ているのか分からない。隣の椅子に鞄を置きかけ、混んできたので膝へ戻した。

診察室では、医師に録音を聞かせた。そのあと、身体を順番に測られた。

身長計に乗ると、頭の上に板が下りてきた。百七十二センチ。去年の健康診断と同じ数字だった。体重、血圧、首回り。看護師は胸と腰にもメジャーを回し、数字を読み上げずに記録した。服の上から、胸の高さで一度、腰骨の高さでもう一度。腰に回されたメジャーの冷たさで、自分の腰がどこにあるのかを、初めて意識した。

採血のあと、検査着に着替えて横になった。胸と下腹に冷たいジェルが塗られ、機械の先が肌を押して滑った。画面は見えなかった。医師は何度か同じところで手を止め、看護師に数字を伝えた。

「胸のここ、押すと痛みますか」

乳首の少し下を、指で軽く押された。痛いと言うほどではない。けれど、押された奥に、小さな芯のようなものがあることが分かった。今まで、そこに何かがあると考えたことはなかった。

「少し、張る感じがします」

医師は頷き、何かを書いた。

呼ばれるたびに席を移り、戻ると待合室の顔ぶれが少し変わっていた。

最後に呼ばれたとき、医師は机の上の資料を俺の方へ向けた。

「今回の診察と検査では、女体化症と判断します」

返事をしようとしたのに、息だけが出た。

医師はそのあとも、しばらく話していた。変化はおおむね三か月から半年ほどかけて進むこと。順序や速度には個人差があること。確実に止める治療や、元の身体へ戻す治療は、今のところないこと。

あとで思い返すと、その説明のほとんどを覚えていなかった。

覚えているのは、医師が資料を指していたボールペンだ。軸に小さく、見慣れた製薬会社の名前が入っていた。三年前、うちの会社で刷った販促品だった。色校正で、社名の赤が少し沈んでいると言われ、二回刷り直した。その赤だった。

医師は資料の図を指で辿った。人の輪郭が、左から右へ五つ並んでいた。

「多いのは、声と肌、体毛が先に変わる経過です。次に胸の腺が育ち、腰や太ももに脂肪がつき始めます。骨盤や肩の骨格は時間をかけて変わり、身長が数センチ縮む方もいます。生殖器の変化は、その間に少しずつ進みます」

図の人は、左から右へ進むにつれて肩が狭くなり、腰が張り出していく。いちばん右の輪郭には、顔が描かれていなかった。俺はしばらく、その空白を見ていた。

診察室の机で見た、五つの人型の図と手帳

「半年というと、九月くらいですか」

自分の口から出たのは、それだった。

「時期の目安としては。ただ、高橋さんの経過を、今ここで日付まで予測することはできません」

九月、と手帳に書いた。すでに同じページに、カタログ納品、とあった。

CONTINUE THE STORY

第1話は、ここまで。

続きはnoteで公開中。600円の買い切りで、この作品の本編を挿絵とともに結末まで読めます。

別の主人公の物語へ。
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女体化症は架空の病気です。本文・挿絵:オレガオンナ。