第1章 座ってろ
シャンパンコールの第一声は、俺が出す。
腹の底から出した声が、天井の鏡に当たって、店のいちばん奥の卓まで鳴る。ヘルプが十人、グラスを持って俺の後ろに並ぶ。マイクは要らない。三年、要らなかった。
「姫から、いただきましたー!」
十人が続く。俺は二声目から声を出さない。第一声だけでいい。あとは座っていればいい。
店では蓮と呼ばれている。三十歳。ROYALの売上で、三年、一位を譲っていない。
卓に戻ると、今日の姫が俺の腕を見ていた。三回目の客で、名前はさっき琉生が耳打ちした。ゆい。二十六。看護師。酒はロゼ。
「触っていい?」
「一本入れたらな」
ロゼが一本入った。俺はジャケットを脱いで、シャツの袖をまくる。上腕に力を入れる。客の指が、そこに乗る。
「この腕は、お前のためにある」
ゆいは笑って、指で押した。いつもなら、ここで客の顔が変わる。硬い、と言う。すごい、と言う。
ゆいは、押したまま、首をかしげた。
「今日、力抜いてる?」
「入れてる」
入れていた。いつもより、入れていた。ゆいは「ふうん」と言って、指を離した。離すとき、指の腹が袖口まで滑った。
「肌、私よりきれい。何かしてる?」
「褒めるなら、腕だろ」
もう一度、力を入れた。ゆいは盛り上がったところを見ずに、自分の腕を隣に並べた。俺は袖を下ろした。比べるために出した腕ではなかった。
ゆいは、それから俺の首のあたりに顔を寄せた。
「蓮くん、香水変えた?」
「変えてない」
「なんか、甘い」
甘い、と言われたのは初めてだった。俺の香水は三年同じで、客にはそれで覚えられている。俺はグラスを置き、ゆいの肩に腕を回した。黙った客は、それで黙る。

*
ROYALの店頭には、写真のパネルが三段に並んでいる。
一番上の真ん中が、俺だ。金の額縁で、下に「三年連続No.1」と入っている。去年の秋に撮り直した写真で、スーツの前を開けて、胸板を見せている。左耳に銀のピアスが二つ、首には細い銀の鎖。顎を少し上げて、目線はカメラの上。社長の葛西さんが選んだ一枚だった。

十九の冬に、この店に入った。
地方の高校を出て、一年、工場で働いた。上京して最初の夜、面接で葛西さんは俺を上から下まで見て、一つだけ言った。
「お前は喋るな。座ってろ」
言われたとおりにした。喋らずに座っていたら、三日目に指名が入った。一か月目に、客が泣いた。俺が何も言わないから、客が勝手に話して、勝手に泣いた。俺は、泣き終わるまで座っていた。
女は、身体と圧で決まる。
口のうまい奴は、どこにでもいる。女が最後に金を置くのは、黙って座っている男の前だ。胸と腕と、声。それだけあればいい。俺はそれを、十九の冬に覚えた。
今の売上の六割は、みゆきだ。
四十一歳。会社を経営していて、昼は百人を使っている。夜だけ、誰かに決めてほしい女だ。俺は決めてやる。「入れるんだろ」と言えば、入れる。「今日来い」と言えば、来る。
みゆきは自分で選んで使っている。俺は止めたことがある。二回。二回目は、店の前で。その日は結局、百二十万入った。俺が止めたのに入ったのだから、それはみゆきが選んだ金だ。
客へのLINEは、ヘルプの琉生と伊吹が打つ。俺のスマホを渡しておけば、朝までに全員に「おはよう」が届く。誕生日と酒の銘柄は、琉生の手帳に書いてある。俺は客の誕生日を一人も言えない。言えなくても、三年、困ったことはない。
店のグループLINEには、俺が指示を書く。
〈ゆい、今日二十一時。ヘルプは琉生。先に「蓮さん今日機嫌悪い」って言っとけ〉
琉生が〈了解っす〉と返す。ゆいが来ると、琉生が先に席について、蓮さん今日ちょっと機嫌悪いっぽいです、と小声で言う。ゆいは心配する。心配した客は、俺が座っただけで安心する。安心した客は、ボトルを入れる。俺は座っているだけだ。
由紀には、死ぬ時は一緒だ、と送った。打ったのは伊吹だ。由紀は三十五で、主婦で、夫の稼ぎを持ってくる。一度妊娠して、一人で病院に行った。それは、二人だけの秘密ということにしてある。太い客とは、ときどきホテルにも行く。それも売上のうちだ。
十二月の最初の営業前ミーティングで、店長の岸さんが先月のランキングを読み上げた。
「一位、蓮。三十六か月連続」
拍手が起きた。俺は立たなかった。立たなくても、拍手は俺の方へ来る。二位の琉生が、手を叩きながら俺を見ていた。二十四で、ナンバー2になって半年になる。琉生の拍手は、いつもいちばん長い。
*
ジムには、週に五日行く。
店が終わって、寝て、昼過ぎに起きて、駅裏のジムへ行く。ベンチプレスは、百キロを五回。三年、それで回してきた。胸と腕が、俺の売り物だ。
その日、百が上がらなかった。
バーを胸まで下ろして、押し上げた。いつもなら、ここで肘が伸びる。伸びなかった。バーが胸の上で止まり、腕が震えた。トレーナーの佐野が、上からバーを掴んだ。
「……今日、調子悪いっすね」
「寝てない」
寝ていないのはいつもだった。佐野はプレートを外し、八十にした。八十は上がった。五回目で、また腕が震えた。

更衣室の鏡の前で、シャツを脱いだ。
胸を張って、全身を映す。肩、胸、腕、腹。これが俺だ、と毎日確かめる。確かめるのは形だけではない。下も見る。腰にタオルを巻く前に、鏡の中のそれを一度見て、それから巻く。十九の冬から、一日も欠かしていない順番だった。
今日も、そこにあった。いつもの大きさで、いつもの重さで。
俺は、少しだけ安心した。何に安心したのかは、考えなかった。
「蓮さん、今日も仕上がってますね」
隣のロッカーで、伊吹が言った。二十二で、俺のヘルプについて一年になる。ジムにもついてくる。ついてくれば、プロテインを奢ってもらえると思っている。
「伊吹。あかりって覚えてるか」
「二年前の、専門の子っすよね」
覚えていた。俺はタオルを腰に巻きながら、あかりの話をした。伊吹には、何回目かの話だった。
二十一だった。専門学校の二年で、友達がいなかった。最初は安い初回で来て、俺の腕を一回触って、帰った。俺は次の日、「会いたい」と一行だけ送らせた。打ったのは琉生だ。三回目に来たとき、他の客とは違う、と言ってやった。五回目には、客じゃない、と言った。半年で、あかりはシャンパンを入れるようになった。一年で、売掛が百八十万になった。
払えない、と言ったのは、あかりの方だった。
「で、ヒロさんに紹介したんすよね」
「あいつが勝手に、払えないって言ったんだよ。俺は払い方を教えただけだ。俺は悪くない」
「大丈夫、すぐ返せる。三か月だ」と、俺はあかりに言った。スカウトのヒロは、あかりに系列の店を紹介した。部屋で男の客と二人になる店だった。店はあかりの身長と体重を聞いて、最低保証を出した。四万だった。俺には、ヒロから紹介料が入った。あかりが最後にこの店に来た夜、会計のあとで泣いていたので、俺は財布から千円を出して、テーブルに投げた。タクシー代だ、と言った。
「千円って」
伊吹が笑った。俺も笑った。
「あかり、今も通ってますよ。琉生さんのとこに」
「知ってる」
知らなかった。知らなくても、どうでもよかった。
「本番で稼げるのは、俺だけだ」
俺はそう言って、ロッカーを閉めた。伊吹は何か言いかけて、やめた。
*
その週のうちに、客が三人、同じことを言った。
香水変えた。なんか甘い。いい匂い。
手の甲を撫でた客が、すべすべ、と言った。俺は手を引っ込めて、グラスを持った。
最初は、柔軟剤のせいだと思った。クリーニング屋に聞いた。変えていない、と言われた。香水を、三年ぶりに変えた。重い、樹の匂いのするやつにした。客は、それでも甘いと言った。
髭の伸びが遅くなった。朝剃って、夜の営業の前に剃り直すのが習慣だった。
洗面所で顎を上げ、指を逆向きに滑らせた。夜には引っかかる場所だった。指は、そのまま耳の下まで行った。
もう一度、顎へ戻した。剃り残しを探す触り方ではなかった。指の腹に返ってくるものを、確かめていた。
鏡の中の俺も、顎に手を添えていた。客が写真を撮るときにする仕草に似ていた。手を下ろし、いつものように顎を突き出した。目つきは変わらなかった。
剃り直さなくていい。楽になった。それだけだ。髭剃りを持たずに、洗面所を出た。
腕の毛が、シャワーで抜けた。脛も抜けた。前に、脱毛サロンに三十万払ったことがある。金がかからなくていい、と思った。
ベンチは、八十に落ちたまま戻らなかった。握力計は、右が五十八から五十になった。佐野は、プロテインの量を増やせと言った。俺は増やした。
こういうことは、全部、冬のせいだと思った。冬は筋肉が落ちる。寝ていないし、酒も飲んでいる。年が明けたら、また上げればいい。
店が終わって、朝の五時に駅裏の部屋へ帰ると、母から着信が一件入っていた。
地方の実家で、一人で暮らしている。三年前、今の1LDKを借りるときに、三百万を借りた。返す、とそのとき言った。まだ返していない。自分の店を持ったら、まとめて返すつもりでいる。
折り返さなかった。朝の五時に電話をしたら、母が心配する。心配させないのも、息子の務めだ。
第2週の火曜、年明けのイベント用に、スーツを一着作りに行った。
三年通っている仕立て屋で、俺の胸囲に合わせた型紙が置いてある。店主が、いつものように俺の胸にメジャーを回した。
「……三センチ、落ちてますね」
「冬だからな」
店主はメジャーを持ったまま、もう一度回した。今度は腕の付け根のあたりで、少し首をかしげた。
「肩も、少し。型紙、直しておきますか」
「直さなくていい。年明けには戻る」
店主は、何も書かずにメジャーを巻き取った。
ジャケットを着ると、店主が片方の肩先をつまんだ。俺の肩は、その指より内側にあった。三年前、動かしにくいほどぴったりに作らせた肩だった。
胸を張った。背中を反らせても、肩先の布は埋まらなかった。
「今のお身体に合わせるなら――」
「服じゃない。身体を戻す」
店主の手からジャケットを引き、前を留めた。ガラスのドアには、顎を上げた俺が映っていた。顔だけ見て、店を出た。
*
病院に行ったのは、みゆきに言われたからではない。
第2週の金曜の夜、みゆきは卓で俺の首に顔を寄せて、長いあいだ黙っていた。それから、グラスを置いて言った。
「蓮。病院行って」
「なんで」
「あんたの匂い。うちの会社の子が、同じ匂いになったことがあるの。三か月で、辞めた」
みゆきは、辞めた、とだけ言った。何になって辞めたのかは、言わなかった。
「行かないなら、今月は入れない」
俺は笑った。みゆきは笑わなかった。その夜、みゆきはボトルを一本も入れずに帰った。三年で初めてだった。
次の月曜、俺は汐見中央病院の変容症外来にいた。
行ったのは、俺が決めたからだ。みゆきに言われたから行ったのではない。原因が分かれば、手が打てる。手が打てれば、年明けにはベンチが戻る。そういう段取りを、俺が決めた。
*
待合室は、思っていたより普通だった。
内科と同じ階で、同じ椅子が並んでいた。問診票を渡されて、膝の上で書いた。名前は、大森隆。店の外でこの名前を書くのは、年に何回もない。職業の欄に、自営業と書いた。
生活習慣の欄があった。運動の頻度。週五。内容。筋トレ。サプリメントや薬の使用。俺は、プロテインと、佐野に勧められたクレアチンと、ビタミンと、名前の分からない粉を二つ書いた。飲酒。毎日。量。書く欄が足りなかった。
女体化症という名前は知っていた。男の身体が、何か月かかけて女の身体に変わる。そういう病気だ。自分の身体に起きることとして、考えたことはなかった。
向かいの椅子で、痩せた男が問診票を書いていた。首が細く、肩が薄い。ああいう男がなる病気だ、と思った。俺は胸を張って座り直した。待合室でいちばん胸板が厚いのは、俺だった。
呼ばれたのは、四十分後だった。
診察室で、看護師が俺の身長を測った。百七十五。体重、七十二。握力、右四十八。
「上、脱いでください」
シャツを脱いだ。医師は俺の胸を見て、何も言わなかった。いつもなら、ここで何か言われる。ジムでも、店でも、脱げば誰かが何かを言う。医師は、聴診器を当てるのと同じ顔で、指を胸に当てた。乳首の少し下を、押した。
「ここ、押すと痛みますか」
「痛くない」
痛くはなかった。押された奥に、硬いものがあった。胸筋の下に、筋肉ではない何かが、硬貨くらいの大きさで埋まっていた。三年、毎日鏡で胸を見てきた。そんなものがそこにあることを、一度も知らなかった。
「ここも、変わります」
医師はそう言って、指を離した。
採血をして、検査着に着替えて、機械で胸と下腹を見られた。また四十分、待合室に戻された。戻ると、向かいの痩せた男はいなかった。
二度目に呼ばれたとき、医師は机の上の資料を俺の方へ向けた。
「女体化症と判断します」
俺は、壁の時計を見た。三時十分。営業は八時からで、その前にジムに行くつもりだった。
医師は、何か話していた。三か月から半年。個人差がある。元に戻す治療はない。
三か月から半年、と頭の中で繰り返した。半年あれば、稼げる。十二月と、一月と、二月。バレンタインがある。三月は決算月だ。みゆきがいる。半年あれば、あと三千万は動く。
「それから」
医師が、資料の下の段を指で示した。そこに、番号のついた項目が並んでいた。一、二、三、四、五。
俺は、時計の秒針を見ていた。