オレガオンナORIGINAL TSF STORIES

CASE 004 / FREE EPISODE 01

ショータイム
第1話

オレガオンナ / オリジナルTSF小説 / 全年齢向け

第1章 宝くじ

汐見駅の北口を出て、飲み屋の並ぶ通りから二本裏に入ったところに、ショーパブ「ミラージュ」がある。

ショーパブというのは、飲み屋と小さな劇場を一つにしたような店だ。客はテーブルで酒を飲み、キャストが隣に座って話し相手をする。夜に二回、店の奥の小さな舞台で、キャストが衣装を着て踊る。客は会社の宴会の団体、観光の人、女同士の飲み会、たまにカップル。

うちのキャストは九人いる。全員が、男に生まれて、女として働いている。昔からある言い方をすれば、ニューハーフの店だ。

私はここで三年、まりあという名前で働いている。

本当の名前は、小野真人という。二十六歳。保険証にも住民票にも、男と書いてある。

*

三月に入ったばかりの、金曜日だった。

開店は夜の八時。キャストは六時に入って、更衣室で支度をする。

更衣室は店の裏の、八畳くらいの部屋だ。壁の一面が鏡で、鏡の上に電球が並んでいる。鏡の前の細長い台に、九人分の化粧道具が肘をぶつけ合うように置いてあって、反対側の壁には衣装のラックが二列。ドレスのスパンコールと、ヘアスプレーと、ファンデーションの匂いがする。

私は、鏡の前のいつもの端の席に座った。

化粧は十分で済む。下地を塗って、顎と口のまわりにだけ、コンシーラーを二度重ねる。家を出る前に髭を剃っても、剃った跡の青さは肌の下に残る。それを、ここで消す。眉を描いて、目を作って、まつげを上げる。口紅は最後。

真人のときから、目だけは人に褒められた。大きくて、黒目が多い。鼻筋も通っている。化粧をすれば、私は女に見える。二十三でこの店の面接を受けたとき、ママは私の顔を正面から見て、こう言った。

「あんたは顔はいい。あとは金」

顔は、もう女に見える。あとは、身体を女にするお金さえあればいい。そういう意味だった。ホルモンの注射にも、手術にも、お金がかかる。顔の方は生まれつきあった。足りないのはお金の方で、それが三年たっても揃っていない。

女性ホルモンは、二週に一回、クリニックで注射している。三年打って、肌は柔らかくなり、胸は少しふくらんだ。ブラのいちばん小さいカップが、まだ少し余る。髭の脱毛は、六回目で止まったままだ。一回が高くて、続かなかった。

身体の手術は、何もしていない。胸を入れて、下を取って、喉と顔を少し直す。全部やれば、四百万かかる。貯金は九十万ある。

声は、自分で作った。三年かけて、喉の上の方で出す声を練習した。店では、それで通る。

作れないのは、手だった。指が長くて、関節が太い。鏡の前でリップのキャップを閉めると、顔は女なのに、手だけが真人のまま、そこにある。だから舞台では、肘の上まである黒い長手袋をする。

*

化粧の途中で、隣の席にレナが座った。

レナは二十七歳で、私と同じ月にこの店に入った。同期は二人しかいないから、更衣室でも席でも、たいてい隣にいる。背が高くて、茶色の髪にゆるいパーマをかけていて、笑うと声が大きい。

レナも、男に生まれた。女性ホルモンは私より二年長く、五年打っている。手術はまだで、そのためにお金を貯めている。タイの病院で、下の手術と、喉と、顔を少し。渡航費と、向こうで休む三か月分の生活費まで入れて、三百八十万。今、二百十万ある。レナは貯金の額を、増えるたびに私に言う。

レナは鞄から紙パックの豆乳を出して、ストローで一気に飲んだ。飲み終わると、パックを両手で平らに潰して、ゴミ箱に落とした。それから鏡の上の棚に手を伸ばして、茶色い瓶を取った。錠剤を一粒出して、水なしで飲んで、瓶を棚の奥に戻す。瓶のラベルには、葉っぱの絵と、プエラリアという字がある。女性ホルモンに似た成分が入っているという、植物のサプリだ。

私が入店した日から、同じ順番だった。

「まりあも飲む?」

「肌にはいいって言うよね」

飲むとも飲まないとも言わずに、私はまつげを上げた。

レナは、肌のために飲んでいるのではない。女体化症が来るように、飲んでいる。

*

女体化症は、大人の男の身体が、三か月から半年くらいかけて、女の身体に変わっていく病気だ。

最初に来るものは、人によって違う。髭が薄くなる人もいれば、声が変わる人もいる。胸の奥が痛み出す人もいる。そこから少しずつ、胸がふくらみ、腰と太ももに肉がつき、肩が落ちて、身長が何センチか縮む。下の方も、女の形になる。半年もすれば、身体は全部、女になっている。顔は、その人の顔のまま、女の顔になる。

一度変わった身体は、元には戻らない。止める薬も、戻す薬もない。

原因は分かっていない。人から人へはうつらない。二十年くらい前から世の中に知られるようになって、今では、知らない人はいない。会社に一人いた、親戚に一人いた、という話を、たいていの人が一つくらい持っている。大きな病院には専門の外来があって、病院ではこの病気を変容症と呼ぶ。身体の変化が落ち着くと、役所に届けを一枚出して、戸籍の性別を女に直せる。そのときに、名前も変えられる。

そして、かかった人のほとんどは、泣く。

ある朝、望んでもいないのに、自分の身体が女に変わり始めるのだから。

でも、この街の片隅には、それを待っている人間がいる。

手術には何百万もかかる。ホルモンを何年打っても、骨の形は変わらないし、背も縮まない。病気なら、半年で全部が来る。お金もかからない。ただ、来る方法がない。誰に来るのかは、誰にも分からない。

だから私たちは、宝くじと呼んでいる。お金では買えない宝くじだ。

*

「レナさん、それって、ほんとに来るんですか」

後ろから声がした。ひなだった。

ひなは二十二歳で、店でいちばん若い。一年前に入って、ホルモンも一年前に始めた。薄いピンクに染めた髪を、まだクリップで留めたままで、眉は片方しか描いていない。鏡越しに、レナの手の中の瓶を見ていた。

「どうやったら来ますか。ほかにも、あるんですか」

真顔だった。ひなは、冗談を言うときも真顔だけれど、これは冗談ではなかった。

レナは瓶を棚に戻して、振り返った。そして、ひなの前に片手を出して、指を一本ずつ折っていった。

「豆乳。女のホルモンに似たのが入ってるから」

一本。

「我慢」

二本。

「我慢って、何をですか」

「言わせないで」

ひなは少し考えて、耳まで赤くなった。

「発症した人と、一緒に住む。うつるって言う人がいるの」

三本。病院は、うつらないと言っている。レナも、それは知っている。

「県北の水。県北のどっかの町で、何年か続けて出たんだって」

四本。

「あとは、願う」

五本目が折れて、レナの手は拳になった。

「県北って、まりあさんの地元ですよね」とひなが言った。

「十八年飲んだよ。来なかった」

ひなが笑った。レナも笑った。

ロッカーの前で、衣装のファスナーを上げていたジュリが、背中を向けたまま言った。

「全部やって、来なかった人。何人も知ってる」

ファスナーが、いちばん上まで上がった。

「なんにもしないで来た人も、一人知ってる」

ジュリは振り向いて、自分の鼻を指さした。今度は、三人とも笑った。

ジュリは三十四歳で、うちの舞台の看板だ。八年前に、女体化症になった。

*

店の中では、ジュリみたいな人を症組と呼ぶ。病気で女になった人、という意味だ。レナや私のように、ホルモンと手術と、そのための借金で女になろうとしている方は、努力組。

誰が言い出したのかは知らない。この界隈では、どこの店でも通じる言い方らしい。どちらも、店の前のパネルには書かない。書かなくても、客は聞く。

今日は、ジュリの症八年だった。発症した日から、ちょうど八年になる。

開店前の三十分、ママが事務所からシャンパンを一本持ってきた。キャストの九人が、フロアのいちばん大きな丸テーブルを囲んだ。グラスは九つ。黒服の二人、店長のタケさんと一年目のソウタは、ウーロン茶を持って後ろに立っている。

ママは五十二歳で、この店の持ち主だ。若いころは都内の大きなショーパブで踊っていて、手術はずっと前に済ませている。銀色の混じった髪を低い位置でまとめて、手首に太い金の腕輪をしている。背筋は、今でもダンサーのままだ。

「八年前はね」

ママはコルクを親指で押しながら言った。

「このテーブルで、誰もおめでとうって言わなかったの」

八年前、ジュリはこの店の黒服だった。二十六歳の、男の黒服。客の酒を運んで、キャストを車で送っていた。

ある朝、ジュリの身体に病気が来た。

「あたし、泣いてたからね」とジュリが言った。「三か月泣いた。お祝いしてもらったの、四か月目」

三か月目に、ママは言ったそうだ。黒服はもう無理でしょう、一回、席に座ってみなさい、と。

コルクが抜けた。ママは泡をこぼさずに、九つのグラスに注ぎ分けた。

うちには決まりがある。発症したキャストには、店で祝いをする。ただし、本人が笑うまで、おめでとうは言わない。ほとんどの人は泣くから。これはママが決めたのではなくて、界隈の決まりだと、ママは言う。

昔は、駅前にこういう店が三軒あった。女体化症が珍しくなくなって、男に生まれて女をやっている人間が、見世物にならなくなった。一軒閉まり、もう一軒閉まって、今はうち一軒になった。ミラージュが残ったのは、ママが早くから、ジュリのような症組を舞台に上げたからだ。ニューハーフと症組が同じ舞台に立つ店は、この辺りでは、ここしかない。

「乾杯」

九つのグラスが鳴った。

乾杯のあとで、ジュリが財布から保険証を出して、テーブルに置いた。

「見る? 八年目の」

毎年やる。誰も断らない。保険証は、手から手へ回っていった。ひなが両手で持って、声に出して読んだ。

「女」

性別の欄の、一文字だった。名前の欄には、樹里、とあった。

届けを出すときに、名前も一度だけ変えられる。ジュリは、ジュリという源氏名に字を当てて、樹里にした。前の名前が何だったのか、私は知らない。聞いたこともない。

カンナは、ちらっと見ただけで、隣へ回した。カンナは三十一歳で、舞台の二番手だ。三年前にタイで手術を受けて、そのローンが、あと二年残っている。

回ってきた保険証を、私は少し長く持っていた。

私の財布にも、保険証が入っている。小野真人。男。病院の受付で、その名前を大きな声で呼ばれるのが嫌で、歯医者にはもう三年行っていない。左の奥歯が一本、冷たいものにしみる。

「まりあ、長い」

レナに言われて、隣に渡した。

*

ショーは、夜八時半の短いものと、十時半からの本番がある。

本番は十曲で、九人が一曲ずつと、最後に全員で一曲。三か月ごとに曲も衣装も入れ替わる。私の番は四曲目で、曲は『ラ・イスラ・ボニータ』。赤いドレスは肩だけが出る形で、黒い長手袋が肘の上まである。ショーが何度変わっても、ママはこの曲だけは私から外さない。三年、同じ曲で踊ってきた。

三曲目のあいだに、舞台の袖から客席を見た。

今夜は、会社の宴会の団体が入っていた。背広の男が十二人、舞台の前の二列を埋めている。幹事の田所さんは四十五歳で、年に四回、この店を宴会に使ってくれる。前の曲のあいだ、田所さんは隣の若い男に何か言いながら、舞台を指さしていた。

曲の頭で、照明が落ちた。

客席のいちばん後ろに、音と照明を操作する小さなブースがある。そこにいるのが、榊さんだ。店の人ではなく、外から週に四日来る技術の人で、無口で、ほとんど話したことがない。

暗い中で、榊さんが、私の立ち位置に赤い光を一つだけ入れた。三年、私の出番の最初の色は、あの人が決めている。

舞台袖

一歩出ると、赤が肩に乗った。

踊っているあいだ、客席の声は波みたいに聞こえる。拍手、口笛、グラスの音。二番の終わりで、手袋の指先まで伸ばして止める。そこで毎回、前の方の誰かが息を吸う音がする。今夜は、田所さんだった。

曲が終わると、ママがマイクを取った。本番の途中に、決まってやる遊びがある。

「さて、恒例です。今夜の九人には、病気で女になった子と、努力で女になった子がいます。どっちがどっちか当てたら、一杯ごちそう」

団体が沸いた。田所さんが立ち上がって、舞台に並んだキャストを、端から順に指さしていった。

「こっち、病気。こっち、努力。……まりあちゃんは、病気」

「はずれ」

ママが言った。団体がどっと笑った。田所さんは頭をかいて、グラスを一つ注文した。

私も笑った。笑いながら、胸の奥のどこかが、ほんの少しだけ明るくなった。はずれたのに、嬉しかった。病気の方に見えた、ということが。そういう嬉しさがあることを、私は誰にも言ったことがない。

*

ショーのあと、女同士の三人組が、私を席に指名してくれた。

三十前くらいの、会社帰りの三人だった。ショーパブには、男の客と同じくらい、女の客も来る。女の客は、キャストの化粧や衣装を見に来て、恋の話をして、よく笑う。

乾杯までに、一人ずつ名前を三回呼んで覚えた。美香さん、ちーちゃん、ゆうこさん。客の名前を三回で覚えるのは、ママに最初に教わったことだ。

「まりあさん、ほんとにかわいい」

「手、大きいでしょ」

「えー、分かんない」

分かる人は、分かる。私はグラスを持つ手を、テーブルの陰に少し下げた。

三杯目のあとで、ちーちゃんが身を乗り出した。悪気のない顔だった。

「ねえ、聞いていい? まりあさんは、病気の人?」

「まだ」

私は言った。

三人は顔を見合わせて、それから笑った。まだって、かわいい。ゆうこさんが、もう一杯頼んだ。

まだ、と言えるのは、待っている人間だけだ。

隣の席に手伝いで入っていたレナは、グラスの氷を指で回していて、笑わなかった。

零時前に、タケさんが私の肩を叩いた。次の卓からの指名だった。私はグラスを置いて、立ち上がった。

「はい、ショータイム」

席を立つときは、いつもそう言う。三人組が拍手をした。

*

閉店は一時。片付けと、ママの短い話が終わると、二時を回る。

更衣室でレナの着替えを待つあいだ、スマホで動画を見た。検索窓に、女体化症、なる方法、と打つ。何回打ったか分からない。

上の方に出てくる動画は、全部知っている。豆乳を一日一リットル飲む男。発症した人の部屋に一か月住む男。願い方の手順を十個並べる女。再生数は多くない。コメント欄は「来ませんでした」で埋まっている。方法の動画が全部嘘だということは、とっくに分かっている。

いちばん再生されているのは、方法の動画ではない。発症した人が、自分の身体の記録を撮ったものだ。

「発症して三か月」。顔の上半分を画面の外に出した女の人が、台所で話していた。前は男だった人だ。

最初の週に、髭が伸びなくなったこと。二週目に胸の奥が痛くなって、病院で病名を言われたこと。一か月半で声が変わって、電話で名乗っても、会社の人に分かってもらえなくなったこと。二か月で、持っていたズボンが全部入らなくなったこと。

女の人の声は、ときどき裏返った。泣いたのは最初の一か月だけだった、と言った。今は、朝、鏡を見るのに慣れてきた、と。

私はそれを、最後まで見た。三か月の人のあとに、半年の人を見た。半年の人のあとに、一年の人を見た。

去年の秋、ジュリの定期の通院に付き添ったことがある。女体化症の人は、身体が落ち着いたあとも、年に一度、病院で検査を受ける。汐見中央病院の変容症外来は、内科と同じ階にあって、待合室の壁に、紙が一枚貼ってあった。

女体化症は、人から人へうつりません。
発症する方法はありません。
発症を望む方の相談も受けています。

一行目と二行目は、どこにでも書いてある。三行目を、私はあの日から覚えている。望む人間がいることを、病院は知っている。知っていて、紙に書いて、壁に貼ってある。それだけのことが、あの日、ずっと嬉しかった。

「お待たせ」

レナが入ってきて、化粧のまま、コートを羽織った。

*

駅の方へ歩いて、二十四時間の牛丼屋で朝を待った。レナの家は、始発のバスでないと帰れない。私は、だいたい付き合う。

レナは牛丼の大盛りを食べて、私は味噌汁と卵を頼んだ。

「今月、二百十万になった」とレナは言った。「あと百七十」

「すごいね」

「すごくないよ。店の子、みんなやってる」

レナは、夏にはタイへ行くつもりでいる。足りない分は、ローンを組む。カンナと同じ病院で、カンナと同じ先生に頼むと決めている。

「ねえ、来たらどうする?」

レナが、箸の先で卵の殻を寄せながら言った。

「来たら?」

「病気。まりあに来たら」

私は少し考えた。

「泣かないと思う」

「あたしは泣く」とレナは言った。「嬉しくて、三か月泣く。ジュリさんの逆」

レナは笑った。それから、声を落とした。

「でも、来るなら、あたしがいいな。あんたより、二年長く待ってるし」

「うん」

私は、うん、と言った。そう言うしかなかった。レナの言うことは、いつも正しい。

レナはポケットから小さなビニール袋を出した。錠剤が三つ入っていた。朝の分だと言った。何の錠剤かは、聞かなかった。

店を出ると、空が白くなりかけていた。レナは交差点で手を振って、反対側のバス停へ渡っていった。

*

一人になって、コートのポケットに手を入れた。指に、マスクが当たった。

昼の顔は、マスクで隠す。化粧をしないで外に出ると、顎と口のまわりの青さが、明るいところで全部見えてしまう。夕方に消した青さは、朝のこの時間には、いつも下から戻ってきている。アパートまで、あと十分。いつもなら、ここでマスクをつける。

ポケットから出して、つけなかった。どうしてかは、自分でも分からない。手に持ったまま歩いた。

駅の方から、看護師らしい女の人が歩いてきた。夜勤明けか、早番か。すっぴんで、髪をひとつに結んで、白い息を吐いている。すれ違うとき、その人の顎を見た。何もなかった。当たり前だった。

いいなあ、と思った。朝のこの道で、何回思ったか分からない。

アパートの階段の下で、マスクをつけた。

*

部屋に着いたのは、六時前だった。

私の部屋は、駅から歩いて十五分の、古いアパートの二階の一室だ。台所と、六畳の部屋と、ユニットバス。窓の外は、もう明るくなり始めていた。

化粧を落とすのは、一日でいちばん嫌な時間だ。

洗面台の前で、クレンジングを手に取って、顔に広げる。目のまわりから、頬、額。最後に、顎と口のまわり。コットンで拭き取ると、夕方に重ねたコンシーラーの下から、真人の顎が出てくる。毎朝、それを見てきた。見ないで済むように、私はいつも、顎を拭くときだけ目を閉じる。

その朝も、目を閉じたまま拭いた。目を閉じたまま顔を洗って、タオルで押さえて、鏡を見ずに洗面所の電気を消した。

布団に入って、いつものように、口の中で言った。

来ないかな。

三年、毎晩、そう言ってから眠ってきた。その朝も、言ってから、すぐに眠った。

*

一度、目が覚めた。

暑かった。三月の朝で、暖房もつけていないのに、首と胸のまわりが汗で濡れていた。Tシャツが背中に張りついて、枕も湿っていた。熱を測ろうかと思った。身体を起こすのが面倒で、やめた。

部屋の中に、甘い匂いがしていた。牛乳を温めたときのような、ほんのり甘い匂い。冷蔵庫の豆乳がこぼれたのかと思った。そう思いながら、また眠った。

夢を見た。舞台の上にいて、榊さんの赤い光が来るのを待っているのに、いつまでたっても暗いままの夢だった。

*

次に目が覚めたのは、午後の二時だった。

カーテンの隙間から、昼の光が細く入っていた。汗は引いていた。枕の上で頭を動かすと、頬に、何かざらりとしたものが触れた。

身体を起こして、枕を見た。

白い枕カバーの上に、細かい黒いものが散っていた。砂粒のようだった。指でつまむと、一つ一つは、二ミリか三ミリの、硬い毛だった。床屋で髪を切ったあとの、首に残る切り屑に似ていた。でも、私は髪を切っていない。私の髪は、背中の真ん中まである。

枕カバーの、頬が当たっていたあたりに、特に多かった。

私は、それを長いこと見ていた。何なのかは、分かっていた。分かっていて、分かったと思いたくなかった。分かったと思ってしまったら、違ったときに、立っていられなくなる気がした。

枕に散った髭

洗面所へ行って、電気をつけた。

起きたら、まず髭を剃る。顎から始めて、口のまわり、最後に喉。泡を塗る前に、手のひらで一度、伸び具合を確かめる。毎朝、化粧の前にやってきた順番だった。

手のひらを、顎に当てた。

何も、引っかからなかった。

いつもなら、朝の顎は紙やすりのようだった。夕方に剃っても、夜が明けるころには、手のひらに細かい棘が並ぶ。その棘が、どこにもなかった。左の頬に手のひらを当てて、右の頬に当てて、顎の下に当てた。喉に当てた。どこも同じだった。つるりとして、少しだけ柔らかかった。

鏡を見た。

化粧をしていない、昼の光の中の、私の顔があった。

十五のころから、鏡の中の私の顎は、いつも青かった。剃っても剃っても、肌の下に黒い点が並んで、顔の下半分だけ、薄く墨を引いたようになっていた。化粧で消して、マスクで隠して、それでも、起きてすぐのこの時間だけは、毎日そこにあった。

それが、なかった。

鼻の下も、顎も、頬も、首も、肌の色が一続きだった。毛穴の奥にあった黒い点が、一つもない。化粧ポーチから十倍の拡大鏡を出して、顎に近づけた。毛穴は、ただの小さな穴だった。中は、空っぽだった。

目も、鼻も、口も、昨日までの私のままだった。真人のときから褒められた、大きな目と、通った鼻筋。その下が、女の人の顎に見えた。化粧をしていない顔を、昼の光の中で、女の人の顔だと思ったのは、生まれて初めてだった。

鏡の中の顎

カミソリを取って、刃を顎に当てた。泡をつけずに、下から上へ、そっと滑らせた。刃は何にも引っかからずに、顎の先から外れた。刃の上には、何も残っていなかった。

私は、洗面台の縁に両手をついた。

息の吸い方が、分からなくなった。吸っても、胸の上の方までしか入らない。鏡の中の女の人も、口を少し開けて、浅い息をしていた。

来た、と言おうとした。声が出なかった。もう一度、口を開けた。

「……来た」

出てきたのは、作っていない、起きてすぐの、真人の低い声だった。顔は女の人なのに、声だけが昨日のままだった。私は笑った。笑ったら、声が裏返った。

手首の内側を、鼻に当てた。甘かった。夜中に部屋にこもっていた、温めた牛乳のような匂いは、豆乳ではなかった。私の匂いだった。

二年前に店にいた子のことを、思い出した。ある日、髭が伸びない、来た、と言って、更衣室で泣きながら笑った子だ。みんなで抱き合った。四日目に、その子の顎に、また髭が生えてきた。風邪の熱で、しばらく毛が弱っていただけだった。その子は、翌月に店を辞めた。

違ったら、どうしよう。

私は、鏡の中の顎を、もう一度撫でた。何も引っかからなかった。枕の上の黒い粒のことを考えた。違うはずがない、と思った。違うはずがないと思ってしまうことが、いちばん怖かった。

病院で言われるまでは、誰にも言わない。そう決めた。レナにも。

それから、電気をつけたまま台所に行って、豆乳を捨てた。

第2章 知ってます

その日の夕方も、いつもどおりの時間に店へ行った。

誰にも言わないと決めた日に、店を休む理由はなかった。休めば、レナが電話をかけてくる。

更衣室の、鏡の前のいつもの端の席に座った。化粧の順番は、いつも同じだ。下地を塗って、次に、顎と口のまわりにコンシーラーを二度重ねる。

コンシーラーのキャップを開けて、鏡を見た。

消すものがなかった。

私はキャップを閉めて、筆を置いた。下地の上に、そのままファンデーションを薄く一度だけ伸ばした。顎のところで、手が止まりそうになった。止めずに、額と同じ厚さで塗った。

化粧は、八分で終わった。

鏡の中の顔は、いつもの私だった。いつもと同じに見えることが、嬉しかった。化粧の下に、もう何も隠していない。

隣の席で、レナが豆乳を飲んでいた。ストローが、紙パックの底でずずっと鳴った。

「まりあ、今日早くない?」

「よく寝たから」

レナは、ふうん、と言ってパックを潰した。棚から茶色い瓶を取って、一粒飲んだ。

言いたかった。今ここで、レナの肩を叩いて、来た、と言いたかった。一番に言うなら、レナだった。ずっと隣の席にいて、同じ動画を見て、同じ牛丼屋で朝を待ってきた。

来るなら、あたしがいいな。あんたより、二年長く待ってるし。

今朝の、牛丼屋でのレナの声を思い出した。私は、口紅を塗った。

*

次の日の朝も、枕に黒い粒が落ちていた。前の日より、ずっと少なかった。三日目の朝には、一つもなかった。

起きるたびに、洗面所の鏡の前で、顎の写真を撮った。動画の人たちがやっていたように、同じ場所で、同じ明るさで。一日目、二日目、三日目。スマホの中に、つるりとした顎が三枚並んだ。並べて見ても、違いは分からなかった。違いが分からないことが、いちばん大事だった。三枚とも、生えてこなかった。

二日目の夜、席で常連の奥さんに言われた。

「まりあちゃん、今日、肌がきれいね」

「ありがとうございます」

私は、それだけ言って笑った。テーブルの陰で、手のひらを顎に当てた。その夜、何回当てたか分からない。当てるたびに、何も引っかからなかった。

*

三日目の夜、開店の前に、ジュリに声をかけた。

「ジュリさん。ちょっと、いいですか」

店の裏口を出ると、ビルとビルの間の細い通路になっている。ゴミの集積所と、隣のビルの室外機と、非常階段の下の暗がり。キャストが煙草を吸いに出るところだ。ジュリは吸わない。私も吸わない。二人で出ると、室外機の低い音だけがしていた。裏口の上に、裸電球が一つ点いていた。

「来たかもしれないんです」

ジュリは、驚いた顔をしなかった。

「いつ」

「おとといの朝。髭が、全部、枕に落ちてました」

ジュリは黙って、私の前に立った。

「顔、貸して」

ジュリの指が、私の顎に触れた。

親指の腹で、化粧の上から、下から上へ、ゆっくり撫でた。ファンデーションが指につくのも構わずに、右の顎、左の顎、顎の先、喉。店の舞台に八年立ってきた人の、爪の短い、少しかさついた指だった。

撫で終わると、ジュリは私の首筋に顔を寄せて、匂いを嗅いだ。

裏口の電球の下で、顎に触れる指

「……甘いね」

「甘いですか」

「あたしのときも、そう言われた。牛乳みたいって」

ジュリは、顔を離した。電球の下で、ジュリの顔は、少しだけ笑っていた。笑っているのに、目は笑っていなかった。

「胸は」

「まだ、何も」

「奥が痛くなったら、たぶん、そう。あたしは十日目だった。硬貨みたいなのが、ここに」

ジュリは自分の胸の真ん中を、指で二回叩いた。

「病院、行きな。紹介状なくても、あそこは診てくれる。それで、言われるまで、誰にも言っちゃだめだよ。違ったら、あんたがいちばんきついから。店の子も、きつい」

「知ってます。二年前の、あの子のとき」

「あたしも、いたからね」

ジュリは、裏口のドアノブに手を掛けた。それから、振り向いた。

「今は嬉しくても、三か月は泣くよ。あたしが、そうだった」

「泣かないと思う」

ジュリは、電球の下で、私の顔をしばらく見ていた。

「……そう」

それだけ言って、ドアを開けた。更衣室の明るさと、ヘアスプレーの匂いが、通路に流れてきた。

次の日の昼、女性ホルモンのクリニックに電話をして、次の注射の予約を取り消した。病気が来た人は、女性ホルモンを止められる。界隈では、誰でも知っている話だった。三年、二週に一回、一度も休まなかった注射だった。

「次のご予約は、どうされますか」

「しばらく、大丈夫です」

電話を切って、そのまま汐見中央病院の番号を押した。変容症外来の予約は、次の週の水曜の朝に取れた。紹介状はありますか、と聞かれた。ありません、と答えた。紹介状がないと、大きな病院では、初診のときに七千円余計にかかる。

払います、と言った。七千円で済むなら、安いものだった。

外来の二日前の夜に、胸の奥が痛み出した。

寝返りを打ったときだった。胸の真ん中の少し横に、硬いものがあって、そこを布団に押しつけると、打ち身のように鈍く痛んだ。ホルモンを始めた年に、胸がふくらみ始めたときの痛みとは違った。あのときは、先の方がすれて痛かった。今度のは、奥だった。ふくらんだ胸のさらに奥に、硬貨くらいの硬いものが、左右に一つずつあった。

来てから、十日目だった。ジュリと同じだった。

*

来てから十二日目の水曜、朝の九時。

汐見中央病院の変容症外来は、二階の内科と同じ並びにある。去年の秋にジュリの付き添いで来た待合室は、何も変わっていなかった。長椅子が四列。壁に、あの紙が貼ってある。

女体化症は、人から人へうつりません。発症する方法はありません。発症を望む方の相談も受けています。

私は、紙のいちばん近くの長椅子に座った。

化粧はしてきた。昼の病院でも、化粧をしないで外へ出ることは、まだ考えられなかった。マスクもしている。青さはもうないのに、マスクを外して電車に乗る勇気は出なかった。十年の癖は、十日では抜けない。

待合室には、七、八人がいた。奥さんらしい人の付き添いで来ている男。一人で本を読んでいる若い男。背広の、五十くらいの男。

背広の男は、膝の上に病院のパンフレットを開いていた。表紙に、変容症と診断された方へ、とある。男はそのパンフレットを、同じページのまま、ずっと見ていた。目の縁が赤かった。鼻をすする音が、一度だけした。

私は、その人から目をそらした。

あの人に来たものと、私に来たかもしれないものは、同じ病気だ。あの人はたぶん今夜、家族に話しながら泣く。私は今夜、店で話したいと思っている。同じ待合室の、同じ長椅子の、三つ離れた席で。

問診票を書いた。名前の欄に、小野真人。性別の欄は、男と女の四角があって、男に丸をつけた。保険証がそうなっているから、そう書くしかない。職業の欄には接客業と書いて、少し考えて、括弧の中にショーパブと足した。使っている薬の欄に、女性ホルモンの注射、三年。いつから症状がありますか、の欄には、枕に髭が落ちていた朝の日付を書いた。

二十分後に、名前を呼ばれた。

「小野真人さん。一番の診察室へどうぞ」

長椅子の何人かが、顔を上げた。化粧をした女が立ち上がって、男の名前の方へ歩いていく。三年、病院へ行かなくなった理由が、これだった。私は背筋を伸ばして、舞台に出るときの歩き方で、診察室まで歩いた。

*

医師は、四十代くらいの人だった。白衣の胸ポケットに、ボールペンが三本さしてある。

「どうされましたか」

「先々週の土曜の朝から、髭が生えません。二日前から、胸の奥が痛みます」

医師は頷いて、看護師に何か言った。

身体を測られた。身長計に乗ると、頭の上に板が下りてきた。百七十二センチ。体重、五十八キロ。看護師は胸と腰と尻にメジャーを回して、数字を読み上げずに画面に打ち込んだ。

何センチですか、と聞けなかった。まだ、聞いていい身体なのか分からなかった。

採血をして、検査着に着替えて、胸と下腹に冷たいジェルを塗られた。機械の先が肌を押して滑る。医師は画面を見ながら、何度か同じところで手を止めた。

「胸のここは、女性ホルモンの影響もあると思いますが、それとは別の組織が育ち始めています」

医師の指が、硬貨のあたりを押した。私は息を止めた。

待合室に戻って、四十分待った。背広の男は、もういなかった。

二度目に呼ばれたとき、医師は机の上の資料を私の方へ向けた。

「検査の結果、女体化症と判断します」

よかった、と声が出た。

小さな声だった。口から出てから、自分で気がついた。医師は資料から目を上げて、私の顔を見た。私は、マスクの下で笑っていた。マスクの上の目も、たぶん笑っていた。

医師は、一拍置いて、そうですか、と言った。それ以上は、何も聞かなかった。

「では、これからのことを説明します。変化は、三か月から半年かけて進みます。順番や速さには、個人差があります。進行を止める治療や、元の身体に戻す治療は、今のところありません」

知っている。全部、知っている。私は頷きながら、一言ずつ聞いた。画面の向こうの人たちが何百回も聞いてきた言葉を、今、私が聞いている。

「ここまでで、分からないところはありますか」

「ありません」

医師は、資料の下の段に指を移した。番号のついた項目が並んでいた。

CONTINUE THE STORY

第1話は、ここまで。

続きはnoteで公開中。600円の買い切りで、この作品の本編を挿絵とともに結末まで読めます。

別の主人公の物語へ。
『同じ名前で』の第1話を読む

女体化症は架空の病気です。本文・挿絵:オレガオンナ。